てきとーなひとたち

ラベル 伊貞玉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 伊貞玉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年11月1日土曜日

伊貞玉



てきとーな慰安婦検証 伊貞玉 その④

■パプア・ニューギニア編

パプア・ニューギニアの首都ポート・モレスビーに着いたのは一九八九年二月二十一日だった。太平洋戦争のとき、日本の空軍基地があり、空軍七万人と陸軍十四万人、そして朝鮮人と日本人の慰安婦がたくさんいたというニューブリテン島に行くためだった。赤道下で暑く、ティッシュで汗をすくと水に浸したようにびっしょり濡れた。タクシーの運転手に"ぼられる"など、いろんな経験をしながらラバウルに着いたのが二月二四日。翌日はアルバート・ブルア牧師の案内でラバウルとその近くのココポを見学した。

博物館を建て戦争を隠蔽

(略)この村にあるラバウル戦争博物館には太平洋戦争当時、日本軍が使った大砲など錆びた鉄類が庭に陳列してあった。標識は英語で書かれていたが、「ラバウル政府建立」という文字は日本語で書かれていた。
村から海が見下ろせる丘の上には日本の海軍指揮所跡があり、大砲、小型飛行機、そして武器類が展示されていた。ここにある標識も「海軍防空部隊指揮所」は漢字と英語で「ラバウル政府建立」は英語と日本語で書かれていた。ラバウル戦争博物館にも誰がそこで戦ったのか、展示されている武器が誰のものだったのかについての言及はない。それなのに「ラバウル政府建立」の「ラバウル」はパプア・ニューギニアの言語ではなく日本語で表示されていた。このことから察すると、日本が戦後建てたのは明らかだが、これをラバウル政府が建てたと書く理由が理解出来なかった。ここで侵略戦争をしたという事実を隠蔽しようというのではないか、と察せられるのだった。

▲どんな察し方だよ ( ̄∇ ̄;)

当時八歳の少年だった現地の人の記憶

(略)彼は五時になってようやく現れた。背が低くがっしりした体つきの五十代の男性だった。日本人の慰霊祭をするために来た人たちを空港まで見送りに行って遅くなったといった。日本人は敗戦後四五年間、毎年ここに来て自国の戦死者の慰霊祭をしているという。ブルナイの案内で車に乗り、慰安婦と関係のある場所を回った。彼は八歳のとき、父親とともに幕舎やトイレの掃除をし、軍人たちの衣類を洗濯した。自分の目で慰安婦たちを直接見、彼女たちの生活と日本軍人たちとの関係を詳しく知っていた。その当時おぼえた日本語でいまも意思疎通ができるほどだった。
海軍指令部は繁華街の中央にあり、慰安所はその横に整然と並んでいたという。金一勉さんのさきの『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』によれば、「最盛期のラバウルには約七万人の海軍と、その二倍の陸軍がいたが、どうやら慰安婦の数は同じだったらしい」という。しかし海軍とは中が悪い陸軍は自分たちに割り当てられた慰安所だけで問題を解決したそうだ。

日本人女性は士官を相手に

同書の一一章「ラバウルの将兵と女」には「鉄砲の弾丸と同じくらいの早さで慰安婦が到着する」といって慰安婦の供給が迅速だったことを示している。事実、日本軍にとっては慰安婦の戦場の弾丸と同様に必需品だったようだ。ブルナイは楽しい過去でも思い出すように、軍隊が入って来るとすぐ女性たちがあとから上陸したと笑いながら話した。女性たちはみな若く、着物をきていたといった。彼は私が会うまで、あの大勢の慰安婦たちがすべて日本人だと思っていた。慰安所がない均衡の軍人たちはラバウルに遊びにやってきたという。正装した兵士たちが船からおり、慰安所に向かって列をつくって行進するが、その光景が見物に値したとも付け加えた。
同書によれば、中国大陸には朝鮮人慰安婦が大半だが太平洋の島々には日本人慰安婦もかなりいたという。
陸軍慰安所では兵士は午後四時まで、下士官は八時、将校は夜に利用するようになっていた。慰安所施設が整っていた海軍は施設自に等級を設けて運営したという。日本人女性は士官のみ相手ににし、朝鮮人女性は士官が来れば相手するが、原則的には兵士のを受け入れるようになっていた。日本人女性は兵士が来ても相手をしてはならなかった。

トラックにのせて部隊巡回も

特攻隊の話。少年と慰安婦にヒロポンを打った。一日九〇人の相手をした。など。慰安婦は少年の死を悲しみ泣いて名前を書いた紙を部屋の片すみにたてかけ花を供え、彼を記憶した。慰安婦をトラックに乗せたのくだりも金一勉の本から。
ラバウルでは連合軍の空襲が止まず、村の慰安所は天井に穴があき、それが見えた。戦争の終わり頃には爆撃がひどく、軍隊と慰安婦は爆撃で海岸線に沿って掘った壕に逃げるしかなかった。この壕はシンガポールとマレーシア近くから連れて来られた中国人やインド人、朝鮮人徴用夫たちが掘ったと思われるが、高さも深さもかなりあった。壕の目の前が車道で、海とつながっていた。ブルア牧師は、海岸線で水深が深く五〇〇トン級の船が停泊できるのでラバウルが海軍の要地になったのだろうと語った。

機関銃で集団射殺

一九八九年夏、タイのパタヤで開かれたある国際会議で会ったパプア・ニューギニアの代表は、戦争が終わる頃、豪の中に慰安婦たちがいるのに出入り口をふさぎ爆破したという話を幼い頃聞いたことがあるといった。私が見た壕でそのようなことがあったのかどうか確認することはできないが、穴や塹壕を爆破するのは日本軍が敗戦後、使った手段であった。この間集めた資料や証言によると、日本軍は上官の命令によって、また敗戦の知らせを聞いて、朝鮮人慰安婦を現地に捨てたり、自分たちだけ逃げるために連合国の空襲があるとだまして女たちを塹壕に集めて爆破した。また、洞窟に避難している慰安婦たちに出てこいといって機関銃で射殺するなどの蛮行を行ったという。日本軍がこのように残忍な方法で朝鮮人慰安婦を殺したのはもちろん、彼らの蛮行を隠すためであった。いわゆる"皇軍"(天皇の軍隊)の中に女性を置かないという鉄則が嘘であったこと、そして朝鮮人衰亡策の一つに朝鮮人女性を滅ぼそうとした陰謀が暴露されるのを恐れたのである。

悲惨な歴史に照明を

(略)そして自ら望んで行ってのでもなく、植民地民族のくびきを負って強制動員された慰安婦たちがもつ歴史的な意味を明らかにし、公的にも社会的にも整理しなければならない。いまやすべての歴史叙述を改めるべきである。慰安婦や徴用夫のことを思うと日本に対する恨みが天にも届くようであるが、日本人の中にも過去を反省しようとする良心を持った人々が多い。私の取材も彼らの助けがあってこそ可能であった。朝鮮侵略による民族的蔑視を忘れてはならないが、感情的に日本を憎むだけでは問題は解決しない。日本の良心的な勢力と政府当局の協力を得て、この問題を明らかにし整理することは、非命のうちに逝った慰安婦に対する私たちの責任であり、歴史を創造してゆくことである。このことに日本が協力するとき、日本も過去から、また戦争犯罪から解放されるのである。(『未来』一九九一年五月(二九五号)~九月(二九九号)所出)


▲少年だった現地人の証言は、今も日本語で意思疎通できることと慰安婦を直接見たこと、そして兵士が楽しそうに正装で行列していたと。とかく暴力的な描写ばかりの日本兵のイメージとは大分違いますね。この章でもほぼ金一勉の本から引用している。伊貞玉が調べて書いたのは赤字の部分だけ。

そして機関銃で集団射殺の項はこの本のクライマックスです。ある会議って何?代表って誰?このあいだ集めた資料・証言って何でしょうか?それを具体的に言えっての。連行前提だから話がもう滅茶苦茶になっている。戦後になんで慰安婦を殺さなきゃならないのか。連行されたから?嘘にも程がある。伊は爆破や射殺などは日本軍の常套手段だったと書き、慰安婦が多数殺されたと暗に言ってるんですな。慰安婦騒動で日韓に影響を及ぼしてきた人物が過去に何を語ったのかはちゃんと検証しないといけないと思うのです。

悲惨な歴史に照明をで、伊の本音がようやく出た。後にもまた書きますけど、彼らは他国に支配され続けた悲惨で屈辱的な歴史を排し、韓国人(朝鮮人)の思い描いた理想的で誇らしい歴史をつくるのが目的。慰安婦はその方便として使っているに過ぎず、輝かしい新たな歴史づくりに日本は協力せよということです。


パプア・ニューギニア編の結論

慰安婦ついて強制連行の証拠なし  証言 兵士が並んでいた光景は和やかな日常風景だった


次回 後編 (まだ続くんかい!笑) ( ̄∇ ̄;)

2014年10月10日金曜日

伊貞玉

てきとーな慰安婦検証 伊貞玉 その③


本題に入る前に慰安婦問題に関する話なんですけど、NHKが吉田清治のことを、「吉田清治という男」と呼称するようになったのは興味深いですね。前からでしたっけ?  では、いってみよー!




■タイ、ハッチャイ


慰安婦"狩り"極秘通牒

日本はアジア各国をすべて自分たちより劣るとし、"共栄"の名の下に欧米の手からそれらの国々を奪い、日本の支配下に置こうとした。戦争が拡大するとともに戦線が広がった。軍隊の士気と占領地の治安維持のために日本軍はすべての前線に慰安婦を配置しようと考えた。陸軍省は「聖戦のため大義親を滅す政策だ」と記した極秘通牒を出し、朝鮮人女性を慰安婦として動員した。日本軍は慰安婦の年齢を十七才から二十歳未婚女性としたが、その条件は無視した。吉田清治さんは『私の戦争犯罪』で(以下略w)

吉田清治さんの戦争犯罪告白

(この項で語られてる話を紹介。一応どんなフィクションだったのかを箇条書きで挙げてきます)
●一九四三年、このころ朝鮮人は日本軍にひっぱられれば彼らの"えじき"になると思っていた
●帽子をつくる家を襲撃して二、三十人の女性のうち八人を連行し徴用隊長の依頼で捕らえた女性を暴行した。
●城山浦のボタン工場で社長をどなりつけ工場の中で慰安婦の選別をした。
●(徴用)隊員が老婆の手拭ををつかんで頬を殴りつけた。妊娠中の女性のスカートを捲りあげて下着に隠されたおなかを見た。
●抗議した女工に吉田は「戦争のためだ、じゃまをするな!」と怒鳴った。 (キリッ)
●別の隊員が女性を殴った。
●この工場での「収穫」は十六人だった。
●部隊本部に着いたとき、軍人たちは歓声をあげて女性たちを迎えた。
●一九四四年一月、パク・キョンドという朝鮮人が中国の漢口に遊郭を買って慰安所を開くため朝鮮で一〇人集め、そこに向かう途中で米軍の爆撃で全員死亡
●挺身隊として連行された女性が満州へ向かう途中汽車から飛び降り、太平洋の島に向かう船から海に飛び込み自殺。その後女性たちの足に鎖をつないで連行した

 ▲全部吉田の創作です(;´Д`)

身分を隠すために中国名を名乗る

私が知っている限り、今まで生き残った人のうちで自分が慰安婦だったことを語った人は沖縄の那覇に住むペ・ポンギさんとタイのハッチャイに住むユユタさん(七〇)だけである。ユユタさんは身元が明らかになるのを望まないため中国名を使っている。私は一九八八年八月、北海道を経由してユユタさんに会うためタイに向かった。
ユユタさんが経営している食堂の名前は"大衆食堂"。食堂の中は煙で薄暗く、大きな仏壇が見せの入口と厨房近くの二ヶ所に据えられていた。右側の壁にはユユタさんの夫である中国人のチェンチャオの家族の写真がかけてあった。夫は写真を説明しながら自分の一族が銀行家だと言ってほこらしげだった。
日本を経つ前、東京で会った朝日新聞社の松井やよりさんが言った通り、ユユタさんの家の居間には大極旗と彼女の母親の写真がかけてあった。

韓国語を忘れたというユユタさん

私はユユタさんが日本人女性の松井さんには慰安婦の話をしたのに、私には一定の距離を保とうとしていることが感じられた。韓国のテレビや新聞が彼女との約束を破って、彼女が知られたくない部分を報道し、不愉快になっているとも聞いていた。
初めて挺身隊の慰安婦について文章を書いた千田夏光さんは私にユユタさんが会ってくれないかもしれないし、また会ったとしても「従軍軍慰安」については話してくれないかもしれないと語っていた。

松井さんの話によれば、ユユタさんは慶尚道出身で慰安婦になる前に結婚した。実家が貧しく婚家も貧しい上に姑にいじめられ、彼女はそこを逃げ出して釜山の近くに住んでいた。井戸水を汲んで水桶をかつごうとしたとき日本人巡査四、五人が「待て」と声をかけた。驚いた拍子に桶を落とし、巡査の服を濡らした。さんざん蹴られた末に結局連行された。一九四ニ年、二十二才のときだった。

彼女はシンガポールとマレーシアで軍人たちの洗濯や幕舎の掃除、弾薬の運搬をし、夜は軍人たちの慰安婦にさせられた。松井さんは一九八四年十一月二日付『朝日新聞』に次のように書いていた。「朝から何十人もの相手をさせられる日もあった。少しでも抵抗すると、監督に殴られ、髪を引っ張られ、半裸で引き回された。人間以下の生活だった」。日本の敗戦を知ったとき朝鮮人慰安婦たちは抱き合って泣いた。しかし、故郷の地を踏めない体だと思った。一年後、タイに渡り飲食店働いたとき今の夫に出会い、結婚した。

蓮の花に生まれ変わりたい

私が二日間見た彼女は、強く肯定的な人生を生きる人であった。「泥の中に美しく咲く蓮の花のように生きたい」と願って蓮花閣は彼女の食堂の隣にあるお寺である。子供を生めなかった彼女は夫にもう一人妻を迎えるようにして今日まで一つの屋根の下で和やかに暮らしている。息子を三人生んで、前妻を「お姉さん」とたてる二度目の妻も賢い人だが、息子を生んでくれた若い女性を実の妹のように同じ家で暮らしている彼女も普通の人ではないと思った。韓国のマスコミに対する拒否感は息子に苦痛を与えないための配慮だからという。彼女は松井さんに「軍人は悪いが、韓国人、日本人、タイ人、中国人はみな友達」だと語ったという。(ほぼ松井やよりの記事から引用)

このように肯定的で開放的に生きるユユタさんを見ながら、一方では沖縄で人間忌避症にかかり閉鎖的に生きているペ・ポンギさんを考えずにおられなかった。『赤瓦の家』を読むと、ペ・ポンギさんは捕虜収容所を出て、一ヶ所に長くいられず、沖縄をさまよったという。その後那覇にとどまってから彼女の地獄のような過去が世に知られ、このように人が訪ねてくるようになったのだ。来る人来る人がみな、夢にも思い出したくない過去を尋ねるのだから、ペ・ポンギさんの心が病むのも、また彼女が私たちをあれほど避けるのも当然だという思いがする。


▲ユユタとされる人物の本当の名はノ・スボク。「韓国のテレビや新聞が彼女との約束を破って知られたくない部分を報道し」と書いてあるが何のことだろうか?慰安婦だったのを公表されたことだったのか、それとも軍人にされた心の傷を暴露されたことに対して不信感を抱いたのかそれは明かされていない。少なくとも伊貞玉よりも先に韓国の新聞やTVが取材に来たいたらしい。そしてその韓国人がタイにまで押し寄せるきっかけをつくったのは一体誰であったのだろう? ともかくここで一九八四年の朝日新聞に掲載された松井やよりの記事を見てみましょう。

見やすい大きさの記事がありましたのでこちらから引用しました
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/421/23/N000/000/017/140759594860444352227.jpg

松井はソウルの女性記者が送ってくれた「私は挺身隊」という記事を見てタイまで取材をしに行ったらしい。この記事で引っかかるのは「この夜から挺身隊員として地獄の日々が始まった」の言い回し。ユユタ(ノ・スボク)さんは韓国に戻っておらず、韓国人の一般的な認識(とされる)、慰安婦=挺身隊の解釈は知らないはず。それは韓国で後に定着したもの。当時を思い出すときにユユタさんが口に出して説明する言葉とは思えない。それでもユユタさんがそう言ったのなら巡査が挺身隊と言って連行したことになる。日本人であれば挺身隊に連れて行くには本人や家族の承諾が必要なのは常識であって、日本政府(朝鮮総督府)は身元を確認していたはずである。一巡査ふぜいが(三、四人とある)が承諾もなしに"挺身隊"として連行できるのだろうか?また複数の少女を監禁していた人間は一体誰なのか?何よりもバラックや個室は工場ではないのだから「"挺身隊員"として地獄の日々が始まった」の言葉はそれ自体破綻していると思われるのだが。NHKを使って天皇を有罪とし北朝鮮工作員と共に裁いた松井ならばこの言い回しにも納得できるのである。

このパートでは、ほぼ松井やよりの話が語られ伊貞玉が独自に取材した内容は読むに値しない文章ばかり。赤字の部分が伊が書いた文章。他にはヘビースモーカーで潔癖症とかそんな話。「故郷はどこですか」という質問にさえユユタさんは答えなかったとある。この本を書いている時点で慰安婦の過去をほじくり返して心を病ませているのは自分たちだとの自覚を少しお持ちだったようだが、その自ら導き出した答えを何十年経っても生かすことはついに無かった訳である。


その後のユユタ(ノ・スボク)さん

引用元サイト: wamblog - アクティブミュージアム 女たちの戦争と平和資料館 -

http://wampeace.blog60.fc2.com/blog-entry-85.html

韓国人には会いたくないと言っていたノ・スボクさんであるが、慰安婦問題で第10回アジア連帯会議報告というところに出席している。タイで幸せを手に入れたはずの彼女。これを見ると反日活動にいいように利用され担ぎ上げられているように思う(本当の被害者ならばね)。彼女は高齢で体が不自由になってなお慰安婦に拘っているのだろうか?触れて欲しくない部分にいつまでもスポットライトを当てられているのにどうしてだろうか?おまけにここには韓国政府からの支給金を朝鮮学校に寄付とある。これの意味することは言うまでもないですね。

最後にノ・スボクさんに関する記事に疑問が・・

引用元サイト: 元従軍慰安婦の女性が死亡したが年齢が変です 当時何歳?

http://ug-jaro.jugem.jp/?eid=1616


韓国KBSのニュースによれば九十歳で亡くなったそう。一九二一年、二一歳だった時に連行されたとある。女子挺身勤労令が公布されたのは一九四四年からである。ノ・スボクさんは本当に哀れな慰安婦だったのだろうか?一体何が真実で何が嘘なのか。誰が本当のことを話し誰が嘘をついているのか。

タイ ハッチャイ編の結論 

新たに慰安婦について得られた証言何も無し。強制連行についての証言なし。


次 パプア・ニューギニア編   嫌だと言っても続けてやるぜ(ミチロウ風に) |-`)

2014年9月28日日曜日

伊貞玉 その②

てきとーな慰安婦検証 伊貞玉 その②



沖縄

沖縄は明治時代(江戸時代の誤りか:訳者)薩摩藩によって征服されるまで独立した琉球王国だった。征服されたのちは薩摩藩に差別されて統治を受けた。日本の敗戦後は米軍の占領下に置かれ、経済事情は日本の統治よりも苦しかった。(中略)敗戦直後、日本軍に裏切られたという背信感や屈辱感をいまも抱いていた。こうした感情が韓国人である私にも好感を持たせたようで、慰安婦や徴用者に対しても同情的だった。また韓国での学生デモや人権運動などについて多くの関心を示した。若者たちの中には沖縄の独立を夢みる者もいた。独立とまではいわなくとも自分たちは日本人と違う沖縄人で、江戸時代以前は沖縄は王国だったという事実を強調した。

朝鮮民族滅亡策

一九八八年二月、二度目に沖縄を訪れたときは韓国教会女性連合会の金恵媛、金信実会員と一緒だった。そのときの目的は一九九〇年にお会いしたペ・ポンギさん(七五歳)にもう一度お会いして話を聞くことと、渡嘉敷に安置されている"ハルエ"という朝鮮人慰安婦の遺骨を韓国に持ち帰ることであった。持ち帰ることまでできなくても、ハルエの遺骨が実際にあるのか確かめ、引き渡してもらえるように手続きだけでもするつもりだった。
本来日本軍は日本の売春婦を慰安婦としていたが、軍隊内に性病が広がり、中国女性を強姦・輪姦して、性病が移ったりした。(中略)そこで考えたのが植民地朝鮮の未婚女性を連行することであった。日本は儒教国である朝鮮が娘たちに厳しく貞操教育することを知っていた。

朝鮮人女性たちが慰安婦として連行され始めたのは、日本が本格的に中国侵略を始めた一九三七年ごろと思われる。日本は、関東軍の満州駐屯が長期化し、中国全土にたくさんの軍人が投入されるにつれて朝鮮人女性の連行を考えたのである。本来、日本軍は日本の売春婦を慰安婦としていたが、軍隊内に性病が広がり、中国女性を強姦・輪姦して、性病が移ったりもした。また中国女性の中にはスパイもいた。だからといって日本の未婚女性を慰安婦として連れて行くわけにもいかない。そこで考えたのが植民地朝鮮の未婚女性を連行することであった。日本は儒教国で朝鮮が娘たちに厳しく貞操教育をすることを知っていた。

また朝鮮の女性を慰安婦にした目的の一つは民族を衰退させるためであった。在日同胞の金一勉さんは『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(一九七八年)のなかで、日本は朝鮮民族を衰退させるために、その民族の基盤となる家庭、そしてその家族の柱となる女性を破壊することが近道だと考えたのであろうと述べている。もちろんそこには女性を男性の慰安物と考える女性蔑視思想が横たわっている。従軍慰安婦政策は日本の軍国主義、帝国主義思想と、男性中心主義による女性蔑視が生んだ国策なのである。

業者に慰安所をまかせる

慰安婦の需要はニクイチといって軍人二九人に対して慰安婦一人の計算だった。しかし、敗戦の直前には一人の慰安婦が百人の軍人を相手にしたともいう。(中略)
慰安所を訪れる軍人にはいくつかの注意事項があった。たとえば、慰安婦と恋愛をしないこと。慰安所に入って三〇分(あるところは四〇分)以上いないこと。必ずコンドームをつけること、慰安婦は共同所有という考えを徹底すること、などである。日本軍にとって慰安所は共同便所と同じであった。


▲慰安婦目的の連行が前提に話は進んでいく。

この本で度々引用されることになる在日の金一勉が書いた『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(一九七六年)という本を何度も何箇所にもわたって伊は引用しております。全くアホらしいですがこれがプロパガンダというものでしょうね。民族抹殺のために慰安婦を連行したという主張と、挺隊協の日本人による朝鮮人のホロコーストが行われたと世界中に喧伝する行為とは重なりますので、その根拠の大元は金一勉なる人物と分かる。また慰安婦二〇万人という数字は全く根拠が無く金一勉が勝手に作り上げたもので、統計・資料に依らないものということを知っておくべきでしょう。(数字は自民党国会議員の荒船清十郎が一九七五年に秩父郡市軍恩連盟招待会で発言した「慰安婦が十四万二千人死んでいる」から引っ張ってると思われるが、そもそも荒船氏の発言には何の根拠も無い。) 金一勉から伊貞玉及び伊美香がその数字を継承し挺隊協の思惑で石碑に二〇万の文字は刻まれることとなった。







そして特徴的だと思うのは娘の厳しく貞操教育をしているという語句を度々この本で使っておること。伊にとっては重要なキーワードなんでしょうが、日本人は娘の貞操教育なんかに価値を置かねーから。お前らの醜い価値観と日本人を一緒にするんじゃない。娘をモノ扱いしているのはどっちですかね。


これがその貞操教育の結末なのか・・ ( ̄∇ ̄;)


嘘をでっちあげたら後は善意の第三者を巻き込んで肥大化させていく。人に憎しみを吹き込む朝鮮人のお家芸。それにしてもね・・、死ね死ね団でも見て参考にしたのでしょうか。レインボーマン(七二~七三年)のミスターKそのまんま。ミスターKのKは言うまでも無くコリアで、日本人抹殺計画を実行する側ですけどね。伊は金一勉の言葉を借り民族抹殺目的で朝鮮人を慰安婦として連行したと言っている

そして「共同便所」、従軍慰安婦ではよく出てくるこの言葉、千田夏光が好んで使ってましたっけ。他ならぬ自分が蔑視しているんですね自己紹介乙ですとしか言い様がないこのような言葉、普通の人間の感覚ではなかなか使えるものではありません。しかし読むものに強烈な嫌悪感を与える。▲


いまだに"人間忌避症" の項ではペ・ポンギ、ハルエという慰安婦の話になる

沖縄に住んでいるペ・ポンギさんはこの苦痛を経て生き残った人である。私たち一行が那覇市の売春女性の相談員である高里鈴代さんとともみぺさんを訪ねたときは、以前住んで居た家よりも良いアパートに住んでいた。ぺさんは家にいたが、私たちがいくら「ハルモニ!」と呼んでも戸を開けてくれなかった。高里さんの話によれば、ぺさんは体の具合が悪く依然として人間忌避症で、朝鮮総連系の金とお言う女性の要請にだけ応じてくれるということだった。ぺさんの過去を考えると一九八〇年十一月に私と会ってくれたことだけでも感謝すべきことだ

(略)川田文子さんの『赤瓦の家』(一九八七年)によると、一九四三年彼女が二九歳のとき「口をあけていればバナナが落ちてくるところ」「お金がたくさん稼げるところ」に連れて行ってやるという女紹介人についていったのだった。
 私たちは一九八八年二月一九日、那覇から西方五五キロのところにある渡嘉敷島と座間味島を訪ねた。渡嘉敷島はハルエさんとペさんがいたところである。座間味島私たちは高里さんの紹介で沖縄住民のみやぎはつえさん(六六歳)とその隣家の住人二名。渡嘉敷島旅館金具志荘の主人古波蔵善亀、その母親、そしてペ・ポンギさんが住んだ"赤瓦の家"の主人中村初子さん(六二歳)に会い、当時の話を聞いた。

ペ・ポンギさんの話

慰安所は村から離れていたが沖縄の金持ちが住む赤瓦の立派な家があてがわれた。ペ・ポンギさんが配置された渡嘉敷の家の主人は中村といった。その娘の初子さんさんは、朝鮮人女性は色が白くきれいで、背がすらっとしていたと語った。そして彼女たちの名前はキクマル(二四歳)、ハルエとカズコ(二三歳)、スズラン(二〇歳)、ミッチャンとアイコ(一六歳)、そして、アキコ(ペ・ポンギさん三〇歳)と記憶していた。(中略)
私は初子さんに、この女性たちがだまされたり、強制的に連れて来られた女性であることを島の人たちが知っていたのかということと、ハルエについて尋ねてみた。彼女は島の人たちはみな彼女たちが職業的な売春婦ではないことを知っていたいたし、ハルエは教養があるように見え、日本語も少し話したといった。

"朝鮮語を使う"といって殺す

ペ・ポンギさんは戦争が終わると日本軍と共に米軍の捕虜収容所に収容された。沖縄本土に集まった慰安婦は慰安婦はそこの女性をたちを保護するために米軍相手の慰安婦とならねばならなかった。(中略)
那覇ではこんな話を聞いた。戦争が終わってしばらくたってから繁華街である若い女性が万歳を叫ぶように両手を上げ、「私は朝鮮人よ!朝鮮人よ!」と叫んだという。彼女は慰安婦だったが精神異常で病院に収容中、そこを抜け出して自分の身の上を明かしたのだという。


▲伊・貞玉が、慰安婦について独自に調べて分かった話は二つ。島の人たちはみな彼女たちが職業的な売春婦ではないことを知っていたいたし、ハルエは教養があるように見えたこと、慰安婦だったという女性が精神異常になって叫んだこと。那覇の話では誰から聞いたのかさえ明かしていない。では伊が他に何を書いているのか。

日本軍は朝鮮人徴用夫たちに多くの塹壕を掘らせ、食料が底をつくと食べ物を盗んでこさせた。
日本人は朝鮮人徴用夫も沖縄人も信用しなかった。自分たちがあやしいと思うことを少しでもしたり母国語をしゃべると暴行し殺したという。
古波蔵善亀さんは「日本軍人は塹壕に避難している沖縄人を追い出し、自分たちが入った。」「きたないのは日本軍人だ」だといった。

              ドヤ顔 <丶`∀´>

結論として、沖縄の慰安婦たちの強制連行についての証言なし。

次回 タイ ハッチャイ編

2014年9月19日金曜日

伊貞玉 その①

てきとーな慰安婦検証 伊貞玉①



吉田清治の虚言を朝日は訂正した。しかし慰安婦の問題で吉田証言に乗っかり伊貞玉は何を語ったのか。このネタを書くいきさつは9月12日の記事を読んで下さい。
トンデモ本として面白いのでてきとーに見てみよう。▲以下が私の戯言です。

朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」 

伊貞玉(ユン・ジョンオク) 他 金英姫、山下英愛、金富子、朴和美、梁澄子

これは1990年韓国のハンギョレ新聞に4回にわたって掲載された筆者の中間報告「挺身隊(怨念の足跡)取材記」を補完するものである。ハンギョレ新聞は日本でいうと朝日新聞みたいなものだろうか?それとも赤旗?人権・平等などをかくれ蓑に反国家の思想で活動しているのであろうか。ハンギョレ新聞の発行部数は少ない。1988年似創刊された中道左派の新聞で反共イデオロギーからの脱却、進歩志向であるとのことが意義だということ、漢字を使わずハングルだけを使っているのが売りらしく、発行部数は28万1千部(2009年のデータ)となっている。しかし日本の新聞社と同じく押し紙などの発行部数を水増ししているので実数はもう少し低いと思われる。因みに朝鮮日報は184万4千。そして2009年の韓国の人口は約4900万人だから韓国人の0.5%の人がハンギョレの購読者ということになる。この新聞の社会に与える影響力がどれだけのものなのか?ベトナム戦争のライタイハンの記事を書いたのもこの新聞である。話を戻して創刊から2年後の1990年にどれだけの人が「挺身隊(怨念の足跡)取材記」を読んだのだろう。人口の0.5%よりさらに少なかったと思われるが、当時韓国では大きな反響を呼んだという。そして伊が後に韓国社会や日本に及ぼした影響は計り知れないものがある。

伊貞玉が設立に関わった「韓国挺身隊問題対策協議会(挺隊協)」という団体は北朝鮮との繋がりがあり、韓国の公安からマークされている存在であると日本人は頭に入れておかなければならない。女性の人権向上の為に活動している善意の団体ではないのだ。挺対協の尹美香代表の夫である金三石とその妹金銀周は、日本で北朝鮮工作員と接触した容疑で、1993年にスパイ事件で逮捕された。

さて、前置きはこれくらいにして肝心の本の中身である。うそ、嘘、ウソのオンパレード。反日根性丸出しのトンデモ本である。日本には八百万の神がいるが朝鮮半島には八百万の嘘があると分かる本ではなかろうか。そもそもきちんと取材をしたのなら挺身隊が慰安婦ではないことが明白であろうというのに、あえて挺身隊と混同させているのは意味はなんだろうか。彼女は、韓国で挺身隊といえば慰安婦のことを指すのだから挺身隊は慰安婦であると結論付けている(滅茶苦茶ですね)。

そして吉田清治を例えに出して日本を批判している著者は「私はこの証言について何の裏付けもとってない」という告白をしているようなもので、そのワードは著作によって真実を語ろうとしているのか否かの判断が出来るリトマス試験紙となっている。であるからしてこの本は信用するに足りないのだが、慰安婦問題は吉田清治が全てではないので次に内容を見ていく。

■著者のことば

1925年抗日運動家の一家に生まれる。1943年12月梨花女子専門学校一年生のとき、日帝が朝鮮半島の各地で未婚の女性たちを挺身隊に引っ張っていくという恐ろしいことが頻繁に起こるようになって、国家総動員令に応じるという書面に捺印させられた。そのような恐ろしいことが繰り返されないよう歴史を整理しなければならない。なぜ、どのように、どれほど連行し何をしたのか責任の所在を明らかにしたならば、今日のように基地周辺や観光地で外貨獲得のために外国人を相手に働く韓国の売春女性はこれほど多くなかったのではないか。この記録は 一九八〇年一二月、一九八八年二月と八月、そして一九八九年七月の四回にわたって北海道、沖縄、タイ、パプアニューギニア、つまり挺身隊の血と涙の跡をたどり、現地の資料や関係者の証言を集めて構成したものである。

ここに全部もう結論でとるやん。抗日、挺身隊、国家総動員令、売春社会。最後お前の希望やろ!w( ̄∇ ̄;) と突っ込まずにはいられない。朝鮮人の行動をみているとその国家総動員令を利用する形で売春斡旋業や人攫いの類が暗躍したのであろうと容易に推察できるがあくまで推察です。


この本は伊貞玉の「挺身隊取材日記」と「明日をともに創るために」金英姫、山下英愛、金富子、朴和美、梁澄子の二部に分かれている。

伊の書いたパートは以下の項目から成る

[前編]
北海道
沖縄
タイ、ハッチャイ
パプア・ニューギニア
[後編]
盧成愚さんの場合
姜徳景さんの場合
金仁順さんの場合
松代慰安所を訪ねて
ハワイ捕虜収容所名簿調査[全羅南道霊光郡編]
ハワイ捕虜収容所名簿調査[慶尚南道聞慶・慶山郡編]
長島愛生園訪問
平和を築くために


北海道

小見出しに「資料の隠蔽」

慰安婦問題はなぜこのように等閑視されているのだろうか?第一の理由は、挺身隊に駆り出された女性たちのほとんどが庶民の出身で、なおかつ女性であるために、男性中心の社会から無視されたのではないかと思う。もう一つの重要な理由は、日本が自ら犯した罪が暴露されることを恐れて、持っていた資料を廃棄したこと。さらに当時、山口県労務報国会下関支部動員部長だった吉田清治さんを除き、挺身隊の連行に関係した日本の元官吏たちが絶対に口を開かないからであろう。 <丶`∀´>


吉田清治以外に具体的な証拠もあげず資料が隠蔽されたと決め付けている。隠蔽されていないはずの韓国の証拠は何故慰安婦の証言だけなのか考えたことは無いのだろう。▲

日本は開国後、資本蓄積のために手段と方法を選ばなかった。江戸時代から始まった北海道開拓、日露戦争の勝利で得た沿海州地方の木材伐採、沿岸漁業、当時のエネルギー源であった石炭の採掘などに日本人の労働力だけでまかなえなくなると、1910年に朝鮮を「併合」し、中国侵略と太平洋戦争をひき起こし、朝鮮人労働者の入国を制限した1899年の勅令を廃止して、強制連行を強化した。

『自治研さっぽろ』(札幌市職自治研推進委員会・在日外国人と自治体研究会・国際都市札幌を考える会編)と北海道開拓受難者調査委員会の樫田精司氏、焼肉店「新生食堂」の主人、キム・ダルソン氏、同じく焼肉店「南大門」の女主人李鍾恵氏、歴史教育者協議会の松前サークルの出版物、小学校教諭浅利政俊氏の資料を参考にすると、北海道に連れて行かれた朝鮮人女性の実態はおよそ次のようなものであった。
女性たちは「おなか一杯食べられてお金も稼げる」という日本人の言葉を信じてついて行った。(中略)紡績工場の女工になった人たちもいる。しかし女工になった人たちの中には、そこでの地獄のような生活から逃げ出すために、あるいはだまされて、売春窟に足を踏み入れることになった。浅利さんが提供してくれた『函館新聞』『函館日日新聞』などのよれば、一九二○年代に大阪の紡績工場で働いていた朝鮮人女性が函館に来たという記録がある。一九二一年に函館にいた朝鮮人数は女性が六人、男性が一〇〇人で、朝鮮料理屋が一軒あった。

朝鮮人女性たちは、"周旋屋"にだまされてここまで来ることになった。周旋屋は彼女たちをしばらく自分の家に住まわせて他の働き口を探せないように外部と遮断した。そしてたくさん食べさせ市内見物をさせたあと、大金と引きかえに彼女たちを遊郭に売り飛ばしたという。このころ大阪や北海道に行った女性ほとんどが十五歳から二十歳ほどであった。売春を強要された女性たちはそこから抜け出す道がないわかると死を選んだ。一人で死ぬ者もいれば、集団で死んだ者もいる。

彼女たちが死に場所に選んだのは、自殺の名所となっている立待岬の絶壁である。函館YWCAの紹介で私を案内してくれた池田晴男さんとともに、細い坂道を登ってたどり着いた絶壁は険しく荒々しかった。(中略)池田さんはこの絶壁に砕ける波の音が、村の人々には「オモニー、オモニー」という叫び声のように聞こえるのだと教えてくれた。

浅利さんが見せてくれた一九二三年十二月十八日付『函館新聞』には「哀れな朝鮮美人死ぬ、十七歳」という記事が載っていた。ここで死んだ朝鮮人女性に関する記事はとても多かった。なかには「日本人の虐待に耐えられず抗議した女性が服まではぎとられて通りにほうり出された」という記事もあった。
一九三十五年六月二十日付の『函館日日新聞』には「午前二時頃、髪を振り乱した半裸の女性が通りを徘徊しているところを巡査が発見」というものもあった。李芳手(二○歳)というこの女性は、「鄭徳寿」という料理店にいたが、ろくに食事も与えられず、病気になっても薬も飲ませてもらえず、ついに精神錯乱をおこしたということだった。


東アジアや朝鮮半島の情勢、また自分達のそれまでの歴史を全く語ることなくいきなり朝鮮併合だけをピックアップし、それが労働力補充の為だったのだと断言(新説ですねw)労働力をまかなうためにわざわざ「併合」したにもかかわらず、戦争を引き起こしただなんてよくもまぁこんな短い文章で論理破綻するものです。「日本が」と語る前に朝鮮半島の辿ってきた歴史はどうだったのかは少しも考察されない。自分の目線でどのような道筋で併合されたのかと言う視点が全くゼロ。そりゃそうですよね被害者だから。一方的にもたらされた完全なる被害者だから。プロパダンガだから。

うちの母親は朝鮮人も一緒の地域に住んでいた貧しい部落の出身で、集団就職で都会に出て紡績工場で働いていました。毎日辛かったと、幼かった私は何度か聞かされました。母の場合は一九四〇年代の話ですけど、戦時下だった頃は更にきつかったんでしょうね。徴用で工場から朝鮮人の子が逃げ出したのは日本の責任なのでしょうか?日本人も朝鮮人も皆仕事は同じで辛かったのですよ。朝鮮人だけに辛い仕事を割り当てたりはしていないのですよ。辛い環境から逃げ出して売春窟に?売春は辛くない職業だったの?曖昧なことばかり書いてあるのよね。浅利氏の資料には函館に来た女性が六人とある。内一人は紡績工場から北海道に。売春窟に入ったと書くが具体的にその六人が売春をしていたのか、のちに慰安婦として働いたのかは全く何も書かれていない。ただ朝鮮人女性が大阪から函館に来た記録があるとだけ。

周旋屋が朝鮮人女性を連行してきたわけやね。周旋屋はわざわざ韓国まで渡って連れて来たんでしょうか?彼女らはどうやって日本にきたのだろうか?日本にだまされたと書いてあるが、騙されたとある限りは国家総動員令による徴用では無かったはず。そして女性を騙した悪いはずのその周旋屋はお金を払ってある書いてある。しかも大金。その大金は一体誰の手に渡ったのですかね?ここがある意味一番重要な点なんですけど。何故書かないんですかね? 当時の新聞記事などを見ると大体朝鮮の業者ですね。そこではなかったのなら親か親族でしょ当然。自分の主張に不利になる事実は伏せておく。お金に困った親が子供売って大金を受け取っていたんでしょ。人攫いみたいなことを朝鮮人自身がしていたんでしょ?当時の国の情勢考えると日本より相当貧しかった朝鮮人たち。当時の女性達には売春による大きな収入が一家や親族を養うただ一つの手段だった。慰安婦の話で重要な点は、慰安婦が挺身隊ではないこと、女性自らの意思で売春業に就業していた事実、親・親族に売られた事実、朝鮮人の売春斡旋業(連れ去り)などの話がスッポリと抜け落ちているんですよね。どの本も。

そして売春が嫌で自殺をした者が大勢いると。立待岬では自殺者が大勢いたから絶壁に波が当たると「オモニー、オモニー」と聞こえてしまう程日本人(by池田晴男)はノイローゼになってしまったんやね。悲惨な話や。3つの話に番号を振ってみる。
①『函館新聞』の「哀れな朝鮮美人死ぬ、十七歳」
②「日本人の虐待に耐えられず抗議した女性が服まではぎとられて通りにほうり出された」
③一九三十五年六月二十日付の『函館日日新聞』には「午前二時頃、髪を振り乱した半裸の女性が通りを徘徊しているところを巡査が発見」 
大勢の自殺者がいたというのだが②と③は実は同じ記事なのです。②の話には発生した年月日は入ってなく、「日本人の虐待に耐えられず~云々」とだけ書いてあり、③は年月日が明記されており②の「女性が服まではぎとられて通りにほうり出された」の文章を使わず「午前二時頃、髪を振り乱した半裸の女性が通りを徘徊しているところを巡査が発見」と違う文面ををわざわざ出しているのです。「~という記事もあった」という言葉を二度使って沢山の記事があるよう読者に印象付けようとしたわけ。これは別に私が資料を探して突き止めたんじゃなく、章の最後にある(注)に出展やら資料やらの解説あるじゃないですか、それに書いてあっただけなんです(笑)本を出す際に気が付かないというのがすごいですね。
ここ(多分函館だろう)で死んだ朝鮮人女性に関する記事はとても多かったらしいとの話、朝鮮女性関する確実な記事は一件だけしかありませんでした。そして②③の「通りにほうり出された人物」は果たして亡くなったのであろうか?集団で死んだ者もいる。と書いておきながらその証拠は提示できていないのである。こんな雑な書き方あるだろうか?伊貞玉の文章は終始こんな感じで書かれています。軽くネットで調べてみたけれど立待岬の自殺や集団自殺の話は見つからなかった。一体真実はどうなんだろうか?

最後につまらん疑問をもう一つ、鄭徳寿なる「朝鮮料理屋」は日本人が経営してたのだろうか?「日本人の虐待に耐えられず」と書かれているからには鄭徳寿は日本人経営じゃないと辻褄が合わないが。全てが曖昧なのである。▲

一九四一年、日本は太平洋戦争を引き起こし、朝鮮の若い男女を前よりも一層連行し始めた。こうした中で、北海道ではたくさんの女性が自殺し、新聞もこの事実を報道した。しかし当局は一九四三年に朝鮮人女性の自殺を記事にしてはならないという禁止令を出した。

「札幌での朝鮮料理店の変化」を見ると、一九二〇年代初めから朝鮮人労働者相手の慰安婦を置く朝鮮料理店が開店したという。また日本人女性に実施されていた公娼制度を朝鮮人女性には適用せず、登録もさていなかったと記されている。売春を強要された朝鮮人女性たちが劣悪な公娼にも及ばない扱いを受けていたことを示している。

朝鮮人女性たちは日本人男性に歓迎されたらしい。一九三五年一月二七日付の『北海タイムス』には「青年層を蝕む朝鮮女、断固、撲滅を図る、札幌署の強硬な態度」という記事が載っている。当局は朝鮮人女性たちがなぜここに来て働いているのかを問うことなく、監視を強めていったのである。


最後なんかは支離滅裂ですね。日本人に歓迎されていたとしながら、すぐ次に日本人は朝鮮女撲滅を図ったと書いている。朝鮮人女性が公娼扱いされなかったのを非難していますけど、適用したらしたで日本の売春制度に組み込まれたとか書くんだろう。

結論としては、北海道には売春婦がいたがその人数は不明で実態も不明。実際の売春婦の聞き取り調査などは全く行われていない。軍の慰安婦の話も何も無い。

次回は沖縄編

2014年9月12日金曜日

伊貞玉




時代は変わるもんですね。昨晩の報道ステーションを見ていたら吉田清治と慰安婦に関して詳細に特集を組んでたので見ていました。あの朝日が慰安婦問題や原発の吉田所長の調書で謝罪するとか、以前なら考えられなかったことが起きてます。

その吉田清治の検証番組の中で伊貞玉という人物にも朝日は取材を行っておりました。吉田清治について聞かれると「書きながらエスカレートすることもある。」なんてしれっと言ってましたが、このババアふざけんなよ!と血管が切れそうになりましたわ。韓国で慰安婦問題に火をつけまくった人物が誰あろうこの婆さんなのですよ。悪名高い韓国挺身隊問題対策協議会(挺隊協)という団体の初代代表です。ちょっと近いうちにこの伊貞玉の書いた本を取り上げたいと思います。