てきとーなひとたち

2014年9月28日日曜日

伊貞玉 その②

てきとーな慰安婦検証 伊貞玉 その②



沖縄

沖縄は明治時代(江戸時代の誤りか:訳者)薩摩藩によって征服されるまで独立した琉球王国だった。征服されたのちは薩摩藩に差別されて統治を受けた。日本の敗戦後は米軍の占領下に置かれ、経済事情は日本の統治よりも苦しかった。(中略)敗戦直後、日本軍に裏切られたという背信感や屈辱感をいまも抱いていた。こうした感情が韓国人である私にも好感を持たせたようで、慰安婦や徴用者に対しても同情的だった。また韓国での学生デモや人権運動などについて多くの関心を示した。若者たちの中には沖縄の独立を夢みる者もいた。独立とまではいわなくとも自分たちは日本人と違う沖縄人で、江戸時代以前は沖縄は王国だったという事実を強調した。

朝鮮民族滅亡策

一九八八年二月、二度目に沖縄を訪れたときは韓国教会女性連合会の金恵媛、金信実会員と一緒だった。そのときの目的は一九九〇年にお会いしたペ・ポンギさん(七五歳)にもう一度お会いして話を聞くことと、渡嘉敷に安置されている"ハルエ"という朝鮮人慰安婦の遺骨を韓国に持ち帰ることであった。持ち帰ることまでできなくても、ハルエの遺骨が実際にあるのか確かめ、引き渡してもらえるように手続きだけでもするつもりだった。
本来日本軍は日本の売春婦を慰安婦としていたが、軍隊内に性病が広がり、中国女性を強姦・輪姦して、性病が移ったりした。(中略)そこで考えたのが植民地朝鮮の未婚女性を連行することであった。日本は儒教国である朝鮮が娘たちに厳しく貞操教育することを知っていた。

朝鮮人女性たちが慰安婦として連行され始めたのは、日本が本格的に中国侵略を始めた一九三七年ごろと思われる。日本は、関東軍の満州駐屯が長期化し、中国全土にたくさんの軍人が投入されるにつれて朝鮮人女性の連行を考えたのである。本来、日本軍は日本の売春婦を慰安婦としていたが、軍隊内に性病が広がり、中国女性を強姦・輪姦して、性病が移ったりもした。また中国女性の中にはスパイもいた。だからといって日本の未婚女性を慰安婦として連れて行くわけにもいかない。そこで考えたのが植民地朝鮮の未婚女性を連行することであった。日本は儒教国で朝鮮が娘たちに厳しく貞操教育をすることを知っていた。

また朝鮮の女性を慰安婦にした目的の一つは民族を衰退させるためであった。在日同胞の金一勉さんは『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(一九七八年)のなかで、日本は朝鮮民族を衰退させるために、その民族の基盤となる家庭、そしてその家族の柱となる女性を破壊することが近道だと考えたのであろうと述べている。もちろんそこには女性を男性の慰安物と考える女性蔑視思想が横たわっている。従軍慰安婦政策は日本の軍国主義、帝国主義思想と、男性中心主義による女性蔑視が生んだ国策なのである。

業者に慰安所をまかせる

慰安婦の需要はニクイチといって軍人二九人に対して慰安婦一人の計算だった。しかし、敗戦の直前には一人の慰安婦が百人の軍人を相手にしたともいう。(中略)
慰安所を訪れる軍人にはいくつかの注意事項があった。たとえば、慰安婦と恋愛をしないこと。慰安所に入って三〇分(あるところは四〇分)以上いないこと。必ずコンドームをつけること、慰安婦は共同所有という考えを徹底すること、などである。日本軍にとって慰安所は共同便所と同じであった。


▲慰安婦目的の連行が前提に話は進んでいく。

この本で度々引用されることになる在日の金一勉が書いた『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(一九七六年)という本を何度も何箇所にもわたって伊は引用しております。全くアホらしいですがこれがプロパガンダというものでしょうね。民族抹殺のために慰安婦を連行したという主張と、挺隊協の日本人による朝鮮人のホロコーストが行われたと世界中に喧伝する行為とは重なりますので、その根拠の大元は金一勉なる人物と分かる。また慰安婦二〇万人という数字は全く根拠が無く金一勉が勝手に作り上げたもので、統計・資料に依らないものということを知っておくべきでしょう。(数字は自民党国会議員の荒船清十郎が一九七五年に秩父郡市軍恩連盟招待会で発言した「慰安婦が十四万二千人死んでいる」から引っ張ってると思われるが、そもそも荒船氏の発言には何の根拠も無い。) 金一勉から伊貞玉及び伊美香がその数字を継承し挺隊協の思惑で石碑に二〇万の文字は刻まれることとなった。







そして特徴的だと思うのは娘の厳しく貞操教育をしているという語句を度々この本で使っておること。伊にとっては重要なキーワードなんでしょうが、日本人は娘の貞操教育なんかに価値を置かねーから。お前らの醜い価値観と日本人を一緒にするんじゃない。娘をモノ扱いしているのはどっちですかね。


これがその貞操教育の結末なのか・・ ( ̄∇ ̄;)


嘘をでっちあげたら後は善意の第三者を巻き込んで肥大化させていく。人に憎しみを吹き込む朝鮮人のお家芸。それにしてもね・・、死ね死ね団でも見て参考にしたのでしょうか。レインボーマン(七二~七三年)のミスターKそのまんま。ミスターKのKは言うまでも無くコリアで、日本人抹殺計画を実行する側ですけどね。伊は金一勉の言葉を借り民族抹殺目的で朝鮮人を慰安婦として連行したと言っている

そして「共同便所」、従軍慰安婦ではよく出てくるこの言葉、千田夏光が好んで使ってましたっけ。他ならぬ自分が蔑視しているんですね自己紹介乙ですとしか言い様がないこのような言葉、普通の人間の感覚ではなかなか使えるものではありません。しかし読むものに強烈な嫌悪感を与える。▲


いまだに"人間忌避症" の項ではペ・ポンギ、ハルエという慰安婦の話になる

沖縄に住んでいるペ・ポンギさんはこの苦痛を経て生き残った人である。私たち一行が那覇市の売春女性の相談員である高里鈴代さんとともみぺさんを訪ねたときは、以前住んで居た家よりも良いアパートに住んでいた。ぺさんは家にいたが、私たちがいくら「ハルモニ!」と呼んでも戸を開けてくれなかった。高里さんの話によれば、ぺさんは体の具合が悪く依然として人間忌避症で、朝鮮総連系の金とお言う女性の要請にだけ応じてくれるということだった。ぺさんの過去を考えると一九八〇年十一月に私と会ってくれたことだけでも感謝すべきことだ

(略)川田文子さんの『赤瓦の家』(一九八七年)によると、一九四三年彼女が二九歳のとき「口をあけていればバナナが落ちてくるところ」「お金がたくさん稼げるところ」に連れて行ってやるという女紹介人についていったのだった。
 私たちは一九八八年二月一九日、那覇から西方五五キロのところにある渡嘉敷島と座間味島を訪ねた。渡嘉敷島はハルエさんとペさんがいたところである。座間味島私たちは高里さんの紹介で沖縄住民のみやぎはつえさん(六六歳)とその隣家の住人二名。渡嘉敷島旅館金具志荘の主人古波蔵善亀、その母親、そしてペ・ポンギさんが住んだ"赤瓦の家"の主人中村初子さん(六二歳)に会い、当時の話を聞いた。

ペ・ポンギさんの話

慰安所は村から離れていたが沖縄の金持ちが住む赤瓦の立派な家があてがわれた。ペ・ポンギさんが配置された渡嘉敷の家の主人は中村といった。その娘の初子さんさんは、朝鮮人女性は色が白くきれいで、背がすらっとしていたと語った。そして彼女たちの名前はキクマル(二四歳)、ハルエとカズコ(二三歳)、スズラン(二〇歳)、ミッチャンとアイコ(一六歳)、そして、アキコ(ペ・ポンギさん三〇歳)と記憶していた。(中略)
私は初子さんに、この女性たちがだまされたり、強制的に連れて来られた女性であることを島の人たちが知っていたのかということと、ハルエについて尋ねてみた。彼女は島の人たちはみな彼女たちが職業的な売春婦ではないことを知っていたいたし、ハルエは教養があるように見え、日本語も少し話したといった。

"朝鮮語を使う"といって殺す

ペ・ポンギさんは戦争が終わると日本軍と共に米軍の捕虜収容所に収容された。沖縄本土に集まった慰安婦は慰安婦はそこの女性をたちを保護するために米軍相手の慰安婦とならねばならなかった。(中略)
那覇ではこんな話を聞いた。戦争が終わってしばらくたってから繁華街である若い女性が万歳を叫ぶように両手を上げ、「私は朝鮮人よ!朝鮮人よ!」と叫んだという。彼女は慰安婦だったが精神異常で病院に収容中、そこを抜け出して自分の身の上を明かしたのだという。


▲伊・貞玉が、慰安婦について独自に調べて分かった話は二つ。島の人たちはみな彼女たちが職業的な売春婦ではないことを知っていたいたし、ハルエは教養があるように見えたこと、慰安婦だったという女性が精神異常になって叫んだこと。那覇の話では誰から聞いたのかさえ明かしていない。では伊が他に何を書いているのか。

日本軍は朝鮮人徴用夫たちに多くの塹壕を掘らせ、食料が底をつくと食べ物を盗んでこさせた。
日本人は朝鮮人徴用夫も沖縄人も信用しなかった。自分たちがあやしいと思うことを少しでもしたり母国語をしゃべると暴行し殺したという。
古波蔵善亀さんは「日本軍人は塹壕に避難している沖縄人を追い出し、自分たちが入った。」「きたないのは日本軍人だ」だといった。

              ドヤ顔 <丶`∀´>

結論として、沖縄の慰安婦たちの強制連行についての証言なし。

次回 タイ ハッチャイ編

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