てきとーなひとたち

2014年10月10日金曜日

伊貞玉

てきとーな慰安婦検証 伊貞玉 その③


本題に入る前に慰安婦問題に関する話なんですけど、NHKが吉田清治のことを、「吉田清治という男」と呼称するようになったのは興味深いですね。前からでしたっけ?  では、いってみよー!




■タイ、ハッチャイ


慰安婦"狩り"極秘通牒

日本はアジア各国をすべて自分たちより劣るとし、"共栄"の名の下に欧米の手からそれらの国々を奪い、日本の支配下に置こうとした。戦争が拡大するとともに戦線が広がった。軍隊の士気と占領地の治安維持のために日本軍はすべての前線に慰安婦を配置しようと考えた。陸軍省は「聖戦のため大義親を滅す政策だ」と記した極秘通牒を出し、朝鮮人女性を慰安婦として動員した。日本軍は慰安婦の年齢を十七才から二十歳未婚女性としたが、その条件は無視した。吉田清治さんは『私の戦争犯罪』で(以下略w)

吉田清治さんの戦争犯罪告白

(この項で語られてる話を紹介。一応どんなフィクションだったのかを箇条書きで挙げてきます)
●一九四三年、このころ朝鮮人は日本軍にひっぱられれば彼らの"えじき"になると思っていた
●帽子をつくる家を襲撃して二、三十人の女性のうち八人を連行し徴用隊長の依頼で捕らえた女性を暴行した。
●城山浦のボタン工場で社長をどなりつけ工場の中で慰安婦の選別をした。
●(徴用)隊員が老婆の手拭ををつかんで頬を殴りつけた。妊娠中の女性のスカートを捲りあげて下着に隠されたおなかを見た。
●抗議した女工に吉田は「戦争のためだ、じゃまをするな!」と怒鳴った。 (キリッ)
●別の隊員が女性を殴った。
●この工場での「収穫」は十六人だった。
●部隊本部に着いたとき、軍人たちは歓声をあげて女性たちを迎えた。
●一九四四年一月、パク・キョンドという朝鮮人が中国の漢口に遊郭を買って慰安所を開くため朝鮮で一〇人集め、そこに向かう途中で米軍の爆撃で全員死亡
●挺身隊として連行された女性が満州へ向かう途中汽車から飛び降り、太平洋の島に向かう船から海に飛び込み自殺。その後女性たちの足に鎖をつないで連行した

 ▲全部吉田の創作です(;´Д`)

身分を隠すために中国名を名乗る

私が知っている限り、今まで生き残った人のうちで自分が慰安婦だったことを語った人は沖縄の那覇に住むペ・ポンギさんとタイのハッチャイに住むユユタさん(七〇)だけである。ユユタさんは身元が明らかになるのを望まないため中国名を使っている。私は一九八八年八月、北海道を経由してユユタさんに会うためタイに向かった。
ユユタさんが経営している食堂の名前は"大衆食堂"。食堂の中は煙で薄暗く、大きな仏壇が見せの入口と厨房近くの二ヶ所に据えられていた。右側の壁にはユユタさんの夫である中国人のチェンチャオの家族の写真がかけてあった。夫は写真を説明しながら自分の一族が銀行家だと言ってほこらしげだった。
日本を経つ前、東京で会った朝日新聞社の松井やよりさんが言った通り、ユユタさんの家の居間には大極旗と彼女の母親の写真がかけてあった。

韓国語を忘れたというユユタさん

私はユユタさんが日本人女性の松井さんには慰安婦の話をしたのに、私には一定の距離を保とうとしていることが感じられた。韓国のテレビや新聞が彼女との約束を破って、彼女が知られたくない部分を報道し、不愉快になっているとも聞いていた。
初めて挺身隊の慰安婦について文章を書いた千田夏光さんは私にユユタさんが会ってくれないかもしれないし、また会ったとしても「従軍軍慰安」については話してくれないかもしれないと語っていた。

松井さんの話によれば、ユユタさんは慶尚道出身で慰安婦になる前に結婚した。実家が貧しく婚家も貧しい上に姑にいじめられ、彼女はそこを逃げ出して釜山の近くに住んでいた。井戸水を汲んで水桶をかつごうとしたとき日本人巡査四、五人が「待て」と声をかけた。驚いた拍子に桶を落とし、巡査の服を濡らした。さんざん蹴られた末に結局連行された。一九四ニ年、二十二才のときだった。

彼女はシンガポールとマレーシアで軍人たちの洗濯や幕舎の掃除、弾薬の運搬をし、夜は軍人たちの慰安婦にさせられた。松井さんは一九八四年十一月二日付『朝日新聞』に次のように書いていた。「朝から何十人もの相手をさせられる日もあった。少しでも抵抗すると、監督に殴られ、髪を引っ張られ、半裸で引き回された。人間以下の生活だった」。日本の敗戦を知ったとき朝鮮人慰安婦たちは抱き合って泣いた。しかし、故郷の地を踏めない体だと思った。一年後、タイに渡り飲食店働いたとき今の夫に出会い、結婚した。

蓮の花に生まれ変わりたい

私が二日間見た彼女は、強く肯定的な人生を生きる人であった。「泥の中に美しく咲く蓮の花のように生きたい」と願って蓮花閣は彼女の食堂の隣にあるお寺である。子供を生めなかった彼女は夫にもう一人妻を迎えるようにして今日まで一つの屋根の下で和やかに暮らしている。息子を三人生んで、前妻を「お姉さん」とたてる二度目の妻も賢い人だが、息子を生んでくれた若い女性を実の妹のように同じ家で暮らしている彼女も普通の人ではないと思った。韓国のマスコミに対する拒否感は息子に苦痛を与えないための配慮だからという。彼女は松井さんに「軍人は悪いが、韓国人、日本人、タイ人、中国人はみな友達」だと語ったという。(ほぼ松井やよりの記事から引用)

このように肯定的で開放的に生きるユユタさんを見ながら、一方では沖縄で人間忌避症にかかり閉鎖的に生きているペ・ポンギさんを考えずにおられなかった。『赤瓦の家』を読むと、ペ・ポンギさんは捕虜収容所を出て、一ヶ所に長くいられず、沖縄をさまよったという。その後那覇にとどまってから彼女の地獄のような過去が世に知られ、このように人が訪ねてくるようになったのだ。来る人来る人がみな、夢にも思い出したくない過去を尋ねるのだから、ペ・ポンギさんの心が病むのも、また彼女が私たちをあれほど避けるのも当然だという思いがする。


▲ユユタとされる人物の本当の名はノ・スボク。「韓国のテレビや新聞が彼女との約束を破って知られたくない部分を報道し」と書いてあるが何のことだろうか?慰安婦だったのを公表されたことだったのか、それとも軍人にされた心の傷を暴露されたことに対して不信感を抱いたのかそれは明かされていない。少なくとも伊貞玉よりも先に韓国の新聞やTVが取材に来たいたらしい。そしてその韓国人がタイにまで押し寄せるきっかけをつくったのは一体誰であったのだろう? ともかくここで一九八四年の朝日新聞に掲載された松井やよりの記事を見てみましょう。

見やすい大きさの記事がありましたのでこちらから引用しました
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/421/23/N000/000/017/140759594860444352227.jpg

松井はソウルの女性記者が送ってくれた「私は挺身隊」という記事を見てタイまで取材をしに行ったらしい。この記事で引っかかるのは「この夜から挺身隊員として地獄の日々が始まった」の言い回し。ユユタ(ノ・スボク)さんは韓国に戻っておらず、韓国人の一般的な認識(とされる)、慰安婦=挺身隊の解釈は知らないはず。それは韓国で後に定着したもの。当時を思い出すときにユユタさんが口に出して説明する言葉とは思えない。それでもユユタさんがそう言ったのなら巡査が挺身隊と言って連行したことになる。日本人であれば挺身隊に連れて行くには本人や家族の承諾が必要なのは常識であって、日本政府(朝鮮総督府)は身元を確認していたはずである。一巡査ふぜいが(三、四人とある)が承諾もなしに"挺身隊"として連行できるのだろうか?また複数の少女を監禁していた人間は一体誰なのか?何よりもバラックや個室は工場ではないのだから「"挺身隊員"として地獄の日々が始まった」の言葉はそれ自体破綻していると思われるのだが。NHKを使って天皇を有罪とし北朝鮮工作員と共に裁いた松井ならばこの言い回しにも納得できるのである。

このパートでは、ほぼ松井やよりの話が語られ伊貞玉が独自に取材した内容は読むに値しない文章ばかり。赤字の部分が伊が書いた文章。他にはヘビースモーカーで潔癖症とかそんな話。「故郷はどこですか」という質問にさえユユタさんは答えなかったとある。この本を書いている時点で慰安婦の過去をほじくり返して心を病ませているのは自分たちだとの自覚を少しお持ちだったようだが、その自ら導き出した答えを何十年経っても生かすことはついに無かった訳である。


その後のユユタ(ノ・スボク)さん

引用元サイト: wamblog - アクティブミュージアム 女たちの戦争と平和資料館 -

http://wampeace.blog60.fc2.com/blog-entry-85.html

韓国人には会いたくないと言っていたノ・スボクさんであるが、慰安婦問題で第10回アジア連帯会議報告というところに出席している。タイで幸せを手に入れたはずの彼女。これを見ると反日活動にいいように利用され担ぎ上げられているように思う(本当の被害者ならばね)。彼女は高齢で体が不自由になってなお慰安婦に拘っているのだろうか?触れて欲しくない部分にいつまでもスポットライトを当てられているのにどうしてだろうか?おまけにここには韓国政府からの支給金を朝鮮学校に寄付とある。これの意味することは言うまでもないですね。

最後にノ・スボクさんに関する記事に疑問が・・

引用元サイト: 元従軍慰安婦の女性が死亡したが年齢が変です 当時何歳?

http://ug-jaro.jugem.jp/?eid=1616


韓国KBSのニュースによれば九十歳で亡くなったそう。一九二一年、二一歳だった時に連行されたとある。女子挺身勤労令が公布されたのは一九四四年からである。ノ・スボクさんは本当に哀れな慰安婦だったのだろうか?一体何が真実で何が嘘なのか。誰が本当のことを話し誰が嘘をついているのか。

タイ ハッチャイ編の結論 

新たに慰安婦について得られた証言何も無し。強制連行についての証言なし。


次 パプア・ニューギニア編   嫌だと言っても続けてやるぜ(ミチロウ風に) |-`)

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