2014年11月1日土曜日

伊貞玉



てきとーな慰安婦検証 伊貞玉 その④

■パプア・ニューギニア編

パプア・ニューギニアの首都ポート・モレスビーに着いたのは一九八九年二月二十一日だった。太平洋戦争のとき、日本の空軍基地があり、空軍七万人と陸軍十四万人、そして朝鮮人と日本人の慰安婦がたくさんいたというニューブリテン島に行くためだった。赤道下で暑く、ティッシュで汗をすくと水に浸したようにびっしょり濡れた。タクシーの運転手に"ぼられる"など、いろんな経験をしながらラバウルに着いたのが二月二四日。翌日はアルバート・ブルア牧師の案内でラバウルとその近くのココポを見学した。

博物館を建て戦争を隠蔽

(略)この村にあるラバウル戦争博物館には太平洋戦争当時、日本軍が使った大砲など錆びた鉄類が庭に陳列してあった。標識は英語で書かれていたが、「ラバウル政府建立」という文字は日本語で書かれていた。
村から海が見下ろせる丘の上には日本の海軍指揮所跡があり、大砲、小型飛行機、そして武器類が展示されていた。ここにある標識も「海軍防空部隊指揮所」は漢字と英語で「ラバウル政府建立」は英語と日本語で書かれていた。ラバウル戦争博物館にも誰がそこで戦ったのか、展示されている武器が誰のものだったのかについての言及はない。それなのに「ラバウル政府建立」の「ラバウル」はパプア・ニューギニアの言語ではなく日本語で表示されていた。このことから察すると、日本が戦後建てたのは明らかだが、これをラバウル政府が建てたと書く理由が理解出来なかった。ここで侵略戦争をしたという事実を隠蔽しようというのではないか、と察せられるのだった。

▲どんな察し方だよ ( ̄∇ ̄;)

当時八歳の少年だった現地の人の記憶

(略)彼は五時になってようやく現れた。背が低くがっしりした体つきの五十代の男性だった。日本人の慰霊祭をするために来た人たちを空港まで見送りに行って遅くなったといった。日本人は敗戦後四五年間、毎年ここに来て自国の戦死者の慰霊祭をしているという。ブルナイの案内で車に乗り、慰安婦と関係のある場所を回った。彼は八歳のとき、父親とともに幕舎やトイレの掃除をし、軍人たちの衣類を洗濯した。自分の目で慰安婦たちを直接見、彼女たちの生活と日本軍人たちとの関係を詳しく知っていた。その当時おぼえた日本語でいまも意思疎通ができるほどだった。
海軍指令部は繁華街の中央にあり、慰安所はその横に整然と並んでいたという。金一勉さんのさきの『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』によれば、「最盛期のラバウルには約七万人の海軍と、その二倍の陸軍がいたが、どうやら慰安婦の数は同じだったらしい」という。しかし海軍とは中が悪い陸軍は自分たちに割り当てられた慰安所だけで問題を解決したそうだ。

日本人女性は士官を相手に

同書の一一章「ラバウルの将兵と女」には「鉄砲の弾丸と同じくらいの早さで慰安婦が到着する」といって慰安婦の供給が迅速だったことを示している。事実、日本軍にとっては慰安婦の戦場の弾丸と同様に必需品だったようだ。ブルナイは楽しい過去でも思い出すように、軍隊が入って来るとすぐ女性たちがあとから上陸したと笑いながら話した。女性たちはみな若く、着物をきていたといった。彼は私が会うまで、あの大勢の慰安婦たちがすべて日本人だと思っていた。慰安所がない均衡の軍人たちはラバウルに遊びにやってきたという。正装した兵士たちが船からおり、慰安所に向かって列をつくって行進するが、その光景が見物に値したとも付け加えた。
同書によれば、中国大陸には朝鮮人慰安婦が大半だが太平洋の島々には日本人慰安婦もかなりいたという。
陸軍慰安所では兵士は午後四時まで、下士官は八時、将校は夜に利用するようになっていた。慰安所施設が整っていた海軍は施設自に等級を設けて運営したという。日本人女性は士官のみ相手ににし、朝鮮人女性は士官が来れば相手するが、原則的には兵士のを受け入れるようになっていた。日本人女性は兵士が来ても相手をしてはならなかった。

トラックにのせて部隊巡回も

特攻隊の話。少年と慰安婦にヒロポンを打った。一日九〇人の相手をした。など。慰安婦は少年の死を悲しみ泣いて名前を書いた紙を部屋の片すみにたてかけ花を供え、彼を記憶した。慰安婦をトラックに乗せたのくだりも金一勉の本から。
ラバウルでは連合軍の空襲が止まず、村の慰安所は天井に穴があき、それが見えた。戦争の終わり頃には爆撃がひどく、軍隊と慰安婦は爆撃で海岸線に沿って掘った壕に逃げるしかなかった。この壕はシンガポールとマレーシア近くから連れて来られた中国人やインド人、朝鮮人徴用夫たちが掘ったと思われるが、高さも深さもかなりあった。壕の目の前が車道で、海とつながっていた。ブルア牧師は、海岸線で水深が深く五〇〇トン級の船が停泊できるのでラバウルが海軍の要地になったのだろうと語った。

機関銃で集団射殺

一九八九年夏、タイのパタヤで開かれたある国際会議で会ったパプア・ニューギニアの代表は、戦争が終わる頃、豪の中に慰安婦たちがいるのに出入り口をふさぎ爆破したという話を幼い頃聞いたことがあるといった。私が見た壕でそのようなことがあったのかどうか確認することはできないが、穴や塹壕を爆破するのは日本軍が敗戦後、使った手段であった。この間集めた資料や証言によると、日本軍は上官の命令によって、また敗戦の知らせを聞いて、朝鮮人慰安婦を現地に捨てたり、自分たちだけ逃げるために連合国の空襲があるとだまして女たちを塹壕に集めて爆破した。また、洞窟に避難している慰安婦たちに出てこいといって機関銃で射殺するなどの蛮行を行ったという。日本軍がこのように残忍な方法で朝鮮人慰安婦を殺したのはもちろん、彼らの蛮行を隠すためであった。いわゆる"皇軍"(天皇の軍隊)の中に女性を置かないという鉄則が嘘であったこと、そして朝鮮人衰亡策の一つに朝鮮人女性を滅ぼそうとした陰謀が暴露されるのを恐れたのである。

悲惨な歴史に照明を

(略)そして自ら望んで行ってのでもなく、植民地民族のくびきを負って強制動員された慰安婦たちがもつ歴史的な意味を明らかにし、公的にも社会的にも整理しなければならない。いまやすべての歴史叙述を改めるべきである。慰安婦や徴用夫のことを思うと日本に対する恨みが天にも届くようであるが、日本人の中にも過去を反省しようとする良心を持った人々が多い。私の取材も彼らの助けがあってこそ可能であった。朝鮮侵略による民族的蔑視を忘れてはならないが、感情的に日本を憎むだけでは問題は解決しない。日本の良心的な勢力と政府当局の協力を得て、この問題を明らかにし整理することは、非命のうちに逝った慰安婦に対する私たちの責任であり、歴史を創造してゆくことである。このことに日本が協力するとき、日本も過去から、また戦争犯罪から解放されるのである。(『未来』一九九一年五月(二九五号)~九月(二九九号)所出)


▲少年だった現地人の証言は、今も日本語で意思疎通できることと慰安婦を直接見たこと、そして兵士が楽しそうに正装で行列していたと。とかく暴力的な描写ばかりの日本兵のイメージとは大分違いますね。この章でもほぼ金一勉の本から引用している。伊貞玉が調べて書いたのは赤字の部分だけ。

そして機関銃で集団射殺の項はこの本のクライマックスです。ある会議って何?代表って誰?このあいだ集めた資料・証言って何でしょうか?それを具体的に言えっての。連行前提だから話がもう滅茶苦茶になっている。戦後になんで慰安婦を殺さなきゃならないのか。連行されたから?嘘にも程がある。伊は爆破や射殺などは日本軍の常套手段だったと書き、慰安婦が多数殺されたと暗に言ってるんですな。慰安婦騒動で日韓に影響を及ぼしてきた人物が過去に何を語ったのかはちゃんと検証しないといけないと思うのです。

悲惨な歴史に照明をで、伊の本音がようやく出た。後にもまた書きますけど、彼らは他国に支配され続けた悲惨で屈辱的な歴史を排し、韓国人(朝鮮人)の思い描いた理想的で誇らしい歴史をつくるのが目的。慰安婦はその方便として使っているに過ぎず、輝かしい新たな歴史づくりに日本は協力せよということです。


パプア・ニューギニア編の結論

慰安婦ついて強制連行の証拠なし  証言 兵士が並んでいた光景は和やかな日常風景だった


次回 後編 (まだ続くんかい!笑) ( ̄∇ ̄;)

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